「墓じまい」という言葉が、ここ数年、メディアを賑わせています。そしてこれは仏教界にとって、実に面白くない話題です。
この「墓じまい」を巡るメディアと業界の動きを見ていると、「家族葬」という言葉が広がり始めた頃を思い出します。
十五年ほど前でしょうか。家族葬という言葉も、マスコミ主導で社会に広がり始めました。
当初、葬儀業界も「供養の心をないがしろにしている」「家族葬は、故人の友人知人を大切にしていない」など、様々な理由で反発しました。
しかし現在、家族葬を批判する葬儀社はほとんどありません。むしろ、積極的に営業に取り入れている葬儀社のほうが多いのが現実です。
確かに、「家族葬」は、マスコミ主導で広まった言葉です。しかし何年かたって落ち着いてみると、社会がそれを望んでいたということがわかってきます。
戦後すぐくらいまでは、葬儀というものは地域が仕切っていたため、個々の家が要望というものを挟む余地はありませんでした。しかし現在では、仕切る地域コミュニティは存在せず、個々の家がそれぞれの事情にあわせて葬儀の内容を決めていくことになります。そして、供養というものが、地域コミュニティや家族制度から離れて、個人の心の問題になっていきます。
同時に、経済状況が悪くなってくる中で、葬儀に大きなお金をかけることが難しい人が増えてきます。
「家族葬」というのは、こうした社会構造の変化から生まれたものです。「家族葬」が増えたからと言って、決して供養の心が衰えたわけではありません。供養のあり方が個人化したということです。
しかも個人化したのは供養のあり方だけではありません。社会の様々なあり方が個人化した結果、供養も個人化せざるのを得なかったということです。
社会のあり方を考えると、家族葬が増えるのは必然なのです。
(ただし、家族葬と言っても、多くの人が批判する「家族だけの葬儀」というものは少なく、家族プラス親しい人という葬儀がほとんどですが)
葬儀業界は、十年もたたずにこれに気づき、家族葬、直葬を受け入れるようになりました。というより、家族葬・直葬を商品のラインナップにもっていない葬儀社は、顧客のニーズに対応していけない葬儀社として、淘汰されてきたのです。
もし、家族葬を求めてきた施主に、「家族葬はよくないですよ」と言ったら、「じゃあ、他の葬儀社にお願いします」と言われるのがおちです。
では仏教界は、どうなのかということですが、残念なことに、十五年前と何も変化はありません。いまだに「家族葬はけしからん」と言い続けています。ただ変わったのは、十五年前は「マスコミが悪い」と言っていたのが、最近は「葬儀社が悪い」と言うようになったことです。
少し考えてみれば誰でもわかることですが、家族葬を積極的にやりたい葬儀社などいるわけがありません。すべての葬儀社は、家族葬をやるより一般葬をやりたいのです。家族葬の件数が増えれば増えるほど、利益は少なくなっていくのですから。
そして「墓じまい」です。
なぜ「墓じまい」をしようとする人は、「墓じまい」の選択をするのでしょうか?
子どもがいなくて、自分が死んだら、お墓が無縁墓になってしまうのが不安だから、という人もいるでしょう。引っ越してしまい、お墓が遠方なので、お墓参りに行くのが不便でだから、という人もいるでしょう。
その多くは、お墓を粗末にしたくないから、という思いが根底にあるわけです。どうしていいかわからなかったから、今までは我慢していたけれど、「墓じまい」という方法を知って、「じゃあ、それをやろう」と思っただけです。こうした方々がどうすればいいかという回答を、これまで石材業界や仏教界が示すことをできませんでした。結局、そうした方々の選択肢は、「墓じまい」しかないのです。
おそらく「墓じまい」も、「家族葬」と同じ道筋をたどるのは間違いありません。社会の中には、「墓じまい」をせざるを得ない人が潜在的にたくさんいるということは、檀家さんときちんと向き合っていれば、自ずと見えてくるはずです。しかも、「墓じまい」は、家族葬の場合より深刻です。「墓じまい」を考える人の多くは、「墓じまい」以外に、自分の抱えている問題の解決策の無い人なのです。
そして、これから「墓じまい」とどう向き合っていくかは、全てのお寺にとって真剣に考えなければならない問題なのです。